日向 佐土原城 (宮崎県)
2013-09-05


名  称 : 佐土原城 (さどわらじょう) 別 名 : 田島城・鶴松城

築城年間 :  建武年間

築城者 : 田嶋休祐(たじまきゅうすけ) 

主な改修者: 田嶋氏、伊東義祐、島津忠興

城 主 : 田嶋氏、伊東氏、島津氏

形 式 :  山 城

所在地 : 宮崎県宮崎市佐土原町上田島字追手

禺画像] (写真をクリックすると大きくなります)===佐土原歴史資料館===


日向 佐土原城 (田嶋城)

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佐土原城は、建武年間に伊東氏の一族、田島休祐によって築かれました。 その後、日向の国の大半を制した伊東義祐の隠居城となり、義祐によって城の規模も拡大されました。

その後 天正5年、伊東氏は島津義久に敗れ豊後に逃れた後、義久の実弟島津家久が城主となりました。 天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後も家久が城主となることになったが、豊臣秀長が家久を恐れて密かに毒殺されたと云われている。

 慶長5年、島津豊久(家久の子)が関ヶ原の合戦で戦死して一時天領となったが、慶長8年に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領しその後。

 寛永14年、4代忠高のときに山上の城郭を廃して山麓に居を移した。 さらに、明治3年に最後の城主忠寛が政庁を広瀬陣屋に移し、佐土原城を廃城としました。

禺画像] (写真をクリックすると大きくなります)===歴史資料館正面玄関===

佐土原城は、明治に広瀬陣屋へ移る時には堀も埋められ水田・畑となっていましたが、現在の発掘調査の結果、二の丸御殿跡に御殿を一部復元し歴史民族資料館「鶴松館」が建てられています。

また江戸時代初期に山頂部にあった曲輪群は破却されていますが、現在では史跡公園として整備されています。佐土原城は、本丸をはじめ5つの曲輪が階段的に配置された山城の縄張りで、最盛期には三層の天守が存在したことが発掘調査で確認されています。

禺画像] (写真をクリックすると大きくなります)===二条城を参考にした鶴松館===


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[城 跡]

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